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書評

篠原雅武著『公共空間の政治理論』

人文書院2007

『図書新聞』2007年11月10日、5頁

橋本努

 

 「空間とはなにか」――。これは、京都大学の間宮陽介先生が、ある年の大学院入試(修士課程)において出題された問題であるという。たまたまこの試験問題に挑んだという筆者は、その後「空間」論を専門領域と定め、「空間の政治理論」と題する博士論文を同大学へ提出したというのだから面白い。その論文を加筆修正して生まれた本書は、「空間」をめぐる政治の本質的な問題と向き合った力作だ。自前の思考営為によって、著者はこの領域で問題となる事柄を徹底的に悩み抜いている。その真摯な姿勢において、本書は「精神の格闘記」と呼ぶにふさわしいであろう。

 この一〇年間、日本の大都市はいずれも、目まぐるしい変化を遂げてきた。高層マンションが乱立し、人々の生活は、都市の快適な居住空間のなかへと、ますます内閉しつつある。人と人との関係は希薄となり、人々は、ブログやネット販売といったバーチャルな営みのなかに「居場所」を見出している。あるいは他方で、郊外のニュータウンにおいては、監視カメラが部外者を寄せつけないように機能し、人々は、均質化された生活空間のなかで、新奇さのない惰性的な生活に安寧を得ている。ニュータウンの生活は、消費においても娯楽においても、整備されたゾーンのなかで完結する。ところが私たちの日常生活の外側で起こっている世界の諸問題は、政治的に解決されないまま放置されているのが現実ではないか。

 近代の都市生活は、大量のコミュニケーションを交わすことを可能にすると同時に、さまざまな問題を生み出してきた。コミュニケーションの障害や複雑さから、人々は、一方では「なげやりな人間関係」(ジンメル)でやり過ごすという、都市生活の作法を身に付けてきた。しかし他方では、人々は「純粋な共同体」(セネット)を求めて、小さくても濃厚な人間関係を築こうとしている。ところが著者によれば、理想的な公共性はこのいずれでもなく、「異質な他者」とのあいだに「開かれた関係」を築くことであるという。

 「開かれた公共性」は、異質な他者たちを一元的に共同化しようというのではない。それではかえって政治的独裁に至ってしまう。開かれた公共空間は、むしろ、まず個々の関係を分散化させて、その重なり合いを築くものでなければならない。また「開かれた公共空間」は、既存の制度化された空間を打破して、これまで潜勢態に留まっていた諸々の可能性を、現実態へと導くような「裂け目」、あるいは「隙間」でなければならない。望ましい公共空間とはつまり、個々の関係を出会わせることによって、その関係を豊饒化していくものでなければならない、と著者は考える。

 新しい可能性が豊饒に生まれる空間がなければ、私たちの社会は、静態的な管理・支配のもとに自閉してしまうだろう。またそのような静的社会において、私たちの「生命力」は、「断片化」と「均質化」の作用によって減退してしまうであろう。ルフェーブルは、こうした「生の減退」の問題にこそ、現代資本主義社会の矛盾をみてとった。ルフェーブルは、惰性化した日常生活を批判する営みによって、生活において隠蔽された「豊かさ(驚異の源泉)」に触れなければならないと主張する。またそのために、合理的支配の制度・組織によって包摂されない空間、例えば、演劇や音楽、官能や自主管理といった都市空間こそ、重要な意義をもつと考えた。

 人々がもし、既成制度に対する対抗的な諸空間を自らの「居場所」とするならば、生の意義は回復されるかもしれない。またそのような居場所が、国民国家を超えるようなコミュニケーションの広がりをもつならば、私たちは既成の政治的枠組を超えて、生き生きとした公共空間を形成していくことができるかもしれない。かつてハンナ・アーレントは、人々が活動するための公共空間を生き生きと描き、これを包摂するような政治政体を展望した。

ところがポスト国民国家と呼ばれる現代社会において、アーレントの理想に「否」をつきつけたのが、ネグリ=ハートの『帝国』であった。ネグリ=ハートは、アーレント的な公共性の理念を「ノスタルジックなユートピア」にすぎないと主張する。なるほど例えば、「G8反対運動」などの「対抗グローバリズム運動」において、私的空間と公共空間の二つは、分かち難く結びついているだろう。そこにはもはや、理想化された公共空間は存在しない。

 けれども本書において、筆者が最後に問うているのは、規範的な意味での公共性の理念である。それは例えば、「異質な他者を排除せずに受け入れる心性」、「おぞましさを感じずに異物と接触する心性」、「今後起こりうる危険を直視していこうとする心性」などの実践理念である。生活を不安定化する過程を恐れず、反対にその過程を、変化を促す生成の自由とみなすこと。そしてその過程に身をさらすこと。またそのような実践のなかで、私たちが互いに、攻撃性と被傷性をともに回避していくこと。そのような人間関係の理想を、著者は最後に展望している。

 著者のいう公共性理念は、一九七〇年代に完成をみた近代福祉国家の均質空間性を否定しつつ、自由市場経済のもたらす「新奇さ」や「異質性との接触」といった現実を、真摯に受けとめるものであろう。ノスタルジックでユートピア的な公共性を謳歌するのではなく、現代のネオリベラル世界においてもなお可能な、公共性の理想を模索している。その意味で本書は、すぐれて現代的な意義をもっている。著者は謙虚にも、本書のテーマは公共空間の成立条件を問うにすぎないと述べるが、しかしその「成立条件」は、すでに公共性の実質的な意味内容を帯びている。本書における探求は、公共性の新たな展望として、広く共有されるべきものであろう。